2011/04/03

遊びと無駄の境界線

曰く、無駄は排除すべきだが遊びがないとフレキシブルな対応ができなくなる、と。

では、無駄と遊びの違いは何かと言われると、よくわかりません。フレキシブルな対応を可能にするという観点で遊びを定義/分類し、無駄との境界線を考えてみました。

■定義
現実は不確実性に満ちている(事象の確率分布の偏りが大きい、エントロピーが低い)。
その不確実性に対処する方法を「遊び」とする

■分類
(1)現実のシミュレーションとしての遊び
(2)余裕、バッファーとしての遊び
(3)過剰適応防止としての遊び

(1)現実のシミュレーションとしての遊び
ままごと/ゲーム/演劇/スポーツ/小説/映画/etc...
一般的に、エンターテイメントなどと言われるものです。
これまで蓄積されてきた人類の経験や知識である程度予測や対処が可能なものも多いはずです。しかし人類全体にとってはそれほど不確実ではなくても、個々人にとってはかなり不確実なことというのは存在します。それらを効率よく学ぶことができる遊びです。

人間はよくできたもので、遊ぶことによって得られるものがなくなった時点で「飽きる」ようにできています。従って、飽きてもやり続けている場合が、無駄になります。但し遊びからなにが学べるかは、遊ぶ側の能力にも依存するということには注意が必要です(飽きたからといって全てを学べたとは限りませんし、飽きていないからと言って効率の良い学習となっているとは限りません。)。



(2)余裕、バッファーとしての遊び
車のハンドルの遊び/遊び歯車/会議の5分前集合/合流バッファー/CRC/etc...
経験と知識により予測と対処が可能とはいえ、全てを厳密に予測し対処するのは「労多くして益少なし」というケースも多いでしょう。ちょっとしたアクシデントに備えるたて、(えてして脆い)システム間の繋がりを保護したりするために、緩衝を遊びとして設けておくのはよくある手法です。

「ちょっとしたアクシデント」に備える以上の余裕は無駄です。これで間に合わない場合は、遊びではなくてちゃんと仕事として対処しましょう。


(3)過剰適応防止としての遊び
言葉遊び/冒険/基礎研究/イノベーション/etc...
現在の環境に適応すればするほど、環境変化についていくのが難しくなります。
カタストロフィーの回避には、個別には恣意的だが総体的にはランダムな探索が重要です。

ランダムである以上、無駄であることはすでに織り込み済みの遊びとも言えます。やってみなければ無駄かどうかわからない、無駄かどうかは後知恵でないとわからない、とも言えます。
環境変化を考えれば、前にやって無駄だったから今回も無駄、とも限りません。


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